KK010
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KK010
title:
Mist on the Window
artist:
Ken Ikeda
time:
48'05"
format:
CD

tracklist

1.
Diary
2.
A Part of Shunkin
mp3
3.
Mist on the Window
mp3
4.
String Purification
5.
Sawaribrato
6.
Iconography
7.
Rustle
8.
Day Moon
9.
"iki"
10.
From Horizon

Text by Ken Ikeda

音の”ゆらぎ”というものは、人間のなかにある固定した宇宙にダイナッミックな運動性を注ぎ込む力を持っている。 あたりまえだと思っていた日常的な情報を振動させ、思っても見ない時間や空間と繋げてしまうことも出来るのである。 このアルバムはオリジナル弦楽器とシンセサイザーのコラボレイションによって、独特な”ゆらぎ”をつくりだし、 エレクトロニックミュージックの時間の流れを変容させることを試みている。

(以下、CD本体に記載された池田謙本人によるライナーノーツ)

生活の中に関わる音を聞くことによって、何かが変わる瞬間がある。毎日使うコップや椅子がつくりだす音が、 なぜこんなに遠くに感じられるのだろう?”私”という存在が、いつもの自分では済まされないような気がしてくる。 リビングルームに響く意味のない雑音が、地平線の果てと繋がる可能性があるかもしれないー。そして私はたった一人 になって、”私が演じていた私”に別れを告げる。

音の響きそのものと同化することによって、毎日の私から離れていき、窓のむこうの”永遠”と”虚無”の宇宙に少し ずつ近付いていく。この時、つまり音によって”私”が変わる瞬間は、決して他人と共有することはできない個人的な 時空である。

私はこの2年間、ゴムとクギという材料による楽器を使って、毎日の音との関わりを記録し続けた。そこ には様々な”私”がいる。録音するという行為によって窓のむこうに気づかされ、”私”は不透明な日常空間へと迷い 混んで行った。

窓のむこうには何があるのか?全宇宙であると同時に、平凡な毎日を過ごすあたりまえな私である。

Ken Ikeda interview (interviewed by visual artist, Yuji Kitagawa )


1.今回のアルバム『The Mist on the Window』では、池田さん自身が製作された「ストリングス・デコーダー」というオリジナル楽器がメイン楽器 として使用されています。この楽器はどういったもので、またどのように演奏するのでしょうか。

厚さ2ー3cmの板に30ー40本の釘を打ちつけ、そこに輪ゴムを張るというシンプルな弦楽器です。調律もな いので当然12音階から外れた弦の音がでるわけですが、同時にゴムが板に擦れた音や、振動したゴムが他の釘と触 れあうノイズが複雑に絡んできます。弦(ゴム)を弾いているつもりでも、実際には演奏者が意識していない音がたく さん含まれているのです。

2.楽器を製作するという地点から音楽を考えていくという姿勢は、いわば音が楽器と結びつくことで可能となる音楽の「始まり」について想像させます。 この「始まり」についてどのように考えていますか。

今はオーケストラのようなストリングスがコンピューターで容易につくれますが、サンプリングやシミュレート された音というものは、演奏者と音を切り離すことが前提となっています。そして、これによって現在の音楽が失っ たものは大きいと思うのです。古代の人間が音を聴き、素材と出会い、楽器をつくり、演奏という身体の運動によっ て音をつくっていったという事実を捉え直したいと思いました。自然と人間との関係を考えることによって、音楽の ”始まり”が見えてくるのではないかと思います。 まわりの音を聴くこと、そして触ったり叩いたりして音をだしてみることが音楽だからです。

3.これまでの二作品『Tsuki』、『Merge』と聴き較べると、本作は「作曲(コンポジション)する」こと共に、 「演奏(インプロヴィゼーション)する」ことに対して、より関心が向けられていると感じられました。 音楽に対する相反したこれら二つの関係についてどのように捉ていますか。

"Tsuki" と "Merge" では、メロディーらしき主音は作曲されていて、同時にランダムな倍音が絡んでいくという構造でした。 作曲した世界は自分の中にある離れられないイメージのようなもので、私にとってのコンポジションとは、この無意識のなかに あるイメージを具体化することだと思います。これに対して、インプロヴィゼイションの場合は、おそらく自分から離れかけた ところに音を探しにいくような行為ではないでしょうか。それは、私の中のイメージというよりも、クギやゴムの位置によって、 或いは指の動きから偶然派生される二次的な音によって決定される音楽とも言えるのです。自然へと近づいていくそれらの音に 耳を傾けることが、この楽器によるインプロヴィゼイションなのです。しかし、このふたつの境界線はあいまいで、きれいに分 かれるわけではありません。シンセサイザーの音も即興的な部分があり、ストリングディコーダーも演奏しながら同時に音の組 み立てを計算している部分があるからです。

4.三味線のサワリや尺八のムラ息などで知られるように、日本の伝統音楽は、いわゆるノイズを独特な方法で取り入れてきました。一般にこのノイズと云わ れているものを、池田さんはどのように考えていますか。

サワリやムラ息とは楽器がつくる主音以外の独特な雑音ですが、日本の伝統楽器は演奏者にコントロール仕切れ ない音を大切にしてきました。これはインドやアフリカなどの民族楽器にも同様に見られることですが、これは自然 に近い音、つまり人間の支配下にない音を大事にするということなのです。しかし、明治以降に西洋音楽の影響を 直接受けた日本の伝統音楽は、徐々に音を支配するということを学んでしまったような気がします。ある一部の演奏家 をさけば、ノイズというものが記号となり、”コントロールできない音”をコントロールしているように聴こえます。

5.池田さんの創造するサウンドからは、ある種のミニマル・ミュージックやドローン・ミュージックと同様のもの、 すなわち音楽の無時間性が感じられます。ノイズの捉え方とも関係してくるとおもいますが、音楽の「終わり」 についてお聞かせください

ラモンテヤング、テリーライリーなど、アメリカの実験音楽家たちは”始まり”から”終わり”へ向かう西洋音楽 の考え方を完全に否定してきました。彼等は輪廻転生といったインド思想から影響を受けながら、音楽の永遠性に 着目したわけですが、私はそういったアメリカのミニマリストに影響を受けながら、バリ島のガムランや沖縄民謡に も同じような時間の捉え方を感じたのです。しかし、完全に解脱するといったインド思想とは少し違って、無時間で ありながら、同時に個人的な(今世の)感覚を内包しているところがガムランや沖縄民謡にはあるのです。煩悩という ものは”終わり”に向かうので、"個人" と "永遠の音楽"は矛盾しますが、私はその矛盾を含んだミニマルミュージック にこそ興味があるのです。”いま””ここで””わたしが”弾いたストリングディコーダーという楽器が、そういう 時間軸のなかで弾ければと思います。