私は以前、テクノあるいはアンビエントで顕著にみられるサイン波というものを、 人間の内面に取り入れることを試みてきた。循環する倍音を、“ゆらぎ”ということばが孕み もつ曖昧さとして捉え直すことで。しかし、テクノあるいはアンビエントは、 グローバル経済の下で“音のコンビニ化”とでもいうべき商品として画一化されてしまった。 曖昧さのつけ入る隙間はなく、もはや手がつけられないようにみえる。もっとも、 これらのサウンドこそが既存の音楽をサンプリングし、シミュレートしたものにほか ならなかったわけだが。しかし、当初、そこにはまだクリティカルな要素があった。 前回のアルバムあたりから、テクノ的なサイン波の使用に限界を感じた私は、きわめて 個人的な日常音に耳を澄まし、触れ合うことになる。音が立ち現れては消え去っていくという 事実から音楽家としての“時”と”場所”を再確認するために。窓の雨、軋む柱、開かれたドア、 階段、キッチンで湯が沸いている…。日常には“ゆらぎ”が溢れていた。海岸や山林といった自然の 中の微妙な、しかし鬱然とした周波数の流れに魅せられないわけにはいかなかった。これら無数の 音たちを単にサンプリングするのではなく、“私”という個の運動として捉え返し、 音楽の社会的通念や価値観からどれだけ離れていけるかが問題となっていった。 今回も使用した木とゴムによる創作楽器(SD404)は、演奏者と自然という対立的な関係 (あるいは捉えられた音対捉えられない音)として作られたものだが、実際に演奏してみると、 この楽器自身にも“ゆらぎ”を感じることができた。cutoff、resonanceといった効果の 本来あるべき色合いは、自然の美しさに限りなく近づいていくものだ。”Kosame"という作品は、 ランダムな自然音の羅列と個の即興性を重ね合わせ、この両義的な運動から派生する”ゆらぎ” が、対立を越えて既存の枠組みから音を解放することを試みている。